お茶の水キャンパスには、個性豊かで素敵な先生がたくさんいます。
先生はどうして先生になったのか。
先生はどんな先生だったのか。
先生はどんなことを考えながら授業をしているのか。
「先生たちにインタビューをしてみました」シリーズ第3弾。
今回はこちらの先生のお話をご紹介します。
野球における花形ポジションと言えば、投手だろうか。その投手の背中で、状況に応じたプレーを求められるのが二塁手である。職人、守備の司令塔、ピボットマン。様々な呼ばれ方をするが、クレバーな選手のポジションであることには違いない。十数年前、真夏の甲子園球場のグラウンドに菅原先生は二塁手として立っていた。
菅原先生の父親は、高校野球のコーチである。菅原先生は幼少期から、父親がチームを指揮する姿をよく見に行っていた。夢はもちろん、プロ野球選手だった。
「生まれたときから父がずっと教員をやってて、高校野球を教えてて。父とはほとんど野球の話しかした記憶がなくて。小学校のときからずっと、野球の試合が終わってから、家帰って、ああだこうだ言われて。まぁでもそうやって色々言ってくれるのは、めちゃくちゃ勉強になって、それで野球をかなり覚えたっていうのはあります。」
自分のそばにいる大きな存在が父親であると認識したときには、既にその人は野球と不可分の存在であった。菅原先生の幼少期は、父親と野球とで埋め尽くされている。
小学4年生から始めた野球の腕は、中学時代の軟式野球を経て、地元、秋田県の強豪高校に入学するまでになった。
そこで上級生のプレーに舌を巻いた。
「先輩がめちゃくちゃ上手かったんですよ。でも、これでもプロには行けないっていうのが分かって、自分じゃ絶対無理だなっていうのが分かって」。
いわゆる「高校球児」は日本に14、5万人ほどいるとされる。その中で夏の甲子園に出場できるのは1000人にも満たない。さらに、そこからドラフト会議で球団に指名され、晴れてプロ入りを果たせるのは僅か2、30人といったところだ。
14、5万人もの集団の中にいれば、自然と自分はどれほどの力を持ち得ているのかということが相対的に見えてくるものだ。
甲子園に行く。全国高校球児が抱く夢は、幾星霜を経ても変わることはない。
菅原先生もその憧れの舞台に立った。
14、5万人の中の自分から、1000人の中の自分になった。
そして、幼い頃からの夢に見切りをつけた。
グラウンドを離れた菅原先生の心に、教員という父親のもう一つの姿が次第に色濃く映るようになってきた。
「父が高校教員をずっとやっていたので、その姿を見てて、純粋にかっこいいなって思って。結構、生徒の話とかをしてくれるんです。家帰ってから。こういう生徒がいたんだよって、やんちゃなやつとか。ほとんどそういう生徒しか対応していなかったみたいなんですけど。あ、いいなって、教員やっているのを、すごく楽しそうな感じが、雰囲気があって、お、いいなって思って。」
菅原先生の父親は、バブル経済の発生から崩壊、そして平成不況へと続く中での教育現場の変遷を目の当たりにしてきた世代であろう。1970年代後半に始まる校内暴力、それを管理教育で抑制しようとした80年代、その抑圧からの解放が発端となって生じた90年代、そして2000年代の学級崩壊、いじめ、不登校。
移ろいゆく時代の中で学校の問題に向き合ってきた父親のルポルタージュは、菅原先生に高校教師になるという新しい夢をもたらすこととなった。
今日は菅原先生の「過去」についてのお話でした。
来週は、菅原先生の「現在」についてのお話です。
お楽しみに。