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≪先生にインタビュー≫大久保先生の「現在」のお話

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「先生たちにインタビューをしてみました」シリーズ第2弾。

前回は、大久保先生の「過去」についてのお話でした。

今回は、大久保先生の「現在」についてです。

大久保さん第2回.jpgのサムネイル画像

大久保先生が飛鳥未来きずな高校お茶の水キャンパスに着任して、半年以上が過ぎた。「楽しい気持ちもありながら、いま、生徒に対して何ができるんだろう」と、度々考えると言う。

「この高校で半年やってみて、今、多分、本当に、生徒にとって自分は近所のおばさん、みたいな関係性だと思って」いると言う。


大久保先生が自身を呼称する表現として「近所のおばさん」を用いるのは、なにゆえか。これには2つの理由がある。


1つは生徒の気持ちが汲み取れてしまうことだ。

「遅刻に関しても、すごく生徒の気持ちが分かってしまうところがある。私が高校生だったら、多分、ちょっと遅刻してでも、試験直前にできるだけ単語を覚えてから教室に入ろうとするだろうな、とか」

お茶の水キャンパスでは、定められた時間以上の遅刻をした場合、授業に参加することができない。それはつまり、生徒が卒業要件としてのスクーリング回数を満たすことから、多かれ少なかれ遠ざかってしまうことになる。ましてや、試験時の遅刻は、他の生徒の受験の妨げになることだってある。そうしたことを防ぐためにも、

「これからその子が生きていくことを考えたら、(遅刻は)だめって言ってあげたほうがいいこと。(遅刻をしない、ということは)できたほうがいいことなんだと思います」と言う。

それでも、自身が高校生だった時のことを思うと、生徒たちの言動の背景が手に取るように分かってしまう。

「同じ目線過ぎているなって思います」。

生徒の気持ちが十分に理解できる一方で、「できたほうがいい」だろうと注意を促そうとする自分もいる。大久保先生はこの葛藤を抱えている。


大久保先生が自身を「近所のおばさん」と称する理由。もう1つは、自分の中で腑に落ちないものを、生徒に強要できないことだ。


「『だめだから、だめ』っていう。先生としては生徒に守って欲しいルールがある、でもなんでそれがだめなのかっていうのが説明できていなくて、(自分は)論理的に説明できる段階ではない、難しいですね」


遅刻。約束の時間に間に合わないことは、良からぬこととされており、今更言うまでもない社会通念である。しかし、それはなぜ良からぬことであるのか、自分はそれを自分のことばで説明ができるだろうか、そしてそれを生徒にどう伝えていくべきなのか。「だめだから、だめ」と常識然として疑問を持たずに乗っかることは、ある種の思考停止だ。そこに未だ答えを見出せない「自分は、まだまだだなって思います」と大久保先生は言う。


ここで強調しておきたいのは、大久保先生は決して遅刻をするような人ではない、ということだ。遅刻はすべきでない。だが、それはあくまでも自分の中の当たり前の価値基準であって、生徒にとってはどうなのか。当たり前だから、「だめだから、だめ」と、その是非を乱暴に他者に説くことはできないのだ。これが生徒のことを考える教師でなくてなんだというのだ。

大久保先生は生徒と「同じ目線」でいて、生徒に自分の価値基準を強いることはしない。そんな教師である自分自身をどこか教師らしくない者として、「近所のおばさん」と形容する。私が出会ってきた先生と呼ばれる人たちの中に、この「近所のおばさん」がいてくれればよかったのに。


今日は大久保先生の「現在」についてのお話でした。

来週は、大久保先生の「未来」についてのお話です。

お楽しみに。

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「先生たちにインタビューをしてみました」シリーズ第1弾

西尾先生の「過去」 「現在」 「未来」のお話はこちらから

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